釧路公立大学

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令和3年度入学式 学長告辞

令和3年度入学式 学長告辞

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令和3年4月7日、本学体育館を会場に「令和3年度釧路公立大学入学式」が執り行われました。
以下、本学学長の告辞文を掲載いたします。
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  新入生の皆さん、入学おめでとうございます。また、本日はご出席頂いていませんが、ご家族や関係者の皆さまにも、教職員一同、こころより、お祝い申し上げます。

 コロナ渦の入学式で、皆さんだけに参加して頂く、簡素な式ではありますが、なによりも昨年は実施できませんでした。皆さんもこの1年間、高校の授業も変則的に行われ、大変苦労されたのではないか、と思いますが、無事この日を迎えられたことを、ともに喜びたいと思います。
 
 さて、釧路は皆さんにとって、どんな町と映ったでしょうか。明治41年に、釧路にきた石川啄木は、釧路の町を次のように詠っています。
 
    さいはての駅に下り立ち
    雪あかり
    さびしき町にあゆみ入りにき
 また、
    顔とこえ
    それのみ昔に変らざる友にも会ひき
    国の果にて
 
 啄木が、さいはて、さびしき町、国の果て、と評した時の釧路の人口は1万8千人ほどでした。それから113年後の、現在の釧路の人口は、16万5千人です。ピーク時の22万人から、減少してしまいましたが、海と湿原に囲まれ、自然と調和した、近代都市に発展してきました。
 当時も今も変わらないのは、遙か彼方に、時に、噴煙をあげる雌阿寒岳、啄木は次のように詠っています。
 
        神のごと
    遠く姿をあらはせる
    阿寒の山の雪のあけぼの
 
 釧路は長く、水産、石炭、製紙の3つの産業を中心に、発展してきました。炭鉱は閉山して、今ではベトナムや中国への、技術支援の機関として、再生していますが、他の2つの産業も、かつての勢いはありません。産業構造の転換点を迎えていることは、広く認識されています。
 釧路の歴史を、50年後の地点から振り返ってみたら、どのような姿となっているのでしょうか。釧路が、湿地の保護を定めた「ラムサール条約」に、国内で初めて登録したのは、昭和55年でした。釧路公立大学が創設されたのは、昭和63年です。ラムサールの国際会議が釧路で開催され、同時に、これまでの釧路湿原以外に、霧多布湿原、厚岸湖・別寒辺牛湿原が、湿地登録されたのは、平成5年でした。もし、釧路が国際観光都市として、さらに、発展していくとしたら、その起点は、ここに求められるでしょう。釧路公立大学は、都市の骨格を形成する機関として、その存在価値を高めていくことを期待された存在なのです。地理的には、「さい果て」、「国の果て」ですが、「さい果て」であるがゆえに、開発されずに残っていたものが、世界の貴重な、財産となっていることに、注目しなければなりません。
 
 長い、前置きになってしまいました。皆さんへの期待を込めて、大学生活で心がけて欲しいことを述べます。
 
 皆さんは、やっと、大学に合格するためという制約から解放されて、純粋に、学ぶことが、すなわち、自分の世界を広げるために、学ぶことができるようになりました。何を学ぶかも、経済学部という制約はありますが、教養科目も含めれば、沢山の講義が開講されています。必ずとらなければならない必修科目はありますが、多くは、自分で選択して、卒業単位を揃えなければなりません。高校までと違って、朝の決まった時間までに、登校しなければならないということもありません。
 皆さんには、全く自由という訳ではありませんが、時間の管理も科目の選択も選択権が与えられています。しかし、自由な選択権は、諸刃の剣です。「心こそ自分の友であり、心こそ自分の敵である」という古い警句もあります。自由であることは、安逸に流れることも自由であるし、決めたことの責任を、自らとらなければならないという点で、厳しいことです。
 高校時代は順調だったのに、大学に来たら変調を来した、という事例は沢山あります。その中には、制約が小さく、多くが自分で決めなければならないことに、起因しているものがあるのです。
 コロナ渦では、学生どうしの繋がりがどうしても希薄になります。相談する友達もなく、愚痴をこぼす友達もいない、その中で、一人「講義に立ち向かい」、疲れ果ててしまう学生もいるのではないかと危惧します。そうならないよう、私たちも支援をしますが、皆さんも、努めて、人の繋がりを、作るようにして下さい。
 
 旺盛な好奇心を、存分に発揮して頂きたいと思います。専門の勉強に入っていくと同時に、時代の課題と切り結んだ、時論にも取り組んで下さい。そうすることを通じて、学んだ理論の使い方、有効性を検証することができるでしょう。長いデフレの原因は何か、これをどう乗り越えていくのか、経済学は様々に議論を展開しています。皆さんは、経済学を教えている先生に、その答えを求めて、議論をすることができます。大学は、教員が学生に一方的に教えるといった場所ではありません。皆さんも大学という知的共同体の一員なのです。相互に批判的に議論をし、知的刺激に満ちた場所でなければなりません。それには、皆さんも、ある程度は背伸びをしなければならないでしょう。大いに背伸びして下さい。そして、至らない自分の現状を、後追い的にでも、埋め合わせるように努力して下さい。そのようにして、人は成長するものでしょう。
 
 最後になりますが、大学は、皆さんが自分の可能性を探究するところでもあります。文献による知的探究は重要ですが、それだけではなく、様々に見聞を広めて頂きたいと思います。1年間は、海外に出て、自分と自分の国を全く違った環境で考えてみることがよいと言われます。本学ではそうした仕組みは、カナダ、台湾、韓国の3カ国にしかありませんが、それでも希望者が多いという訳ではないようです。大いに挑戦して頂きたいと思います。
 海を渡れば異国、という感覚が残っている人もいるでしょう。そういう意味では、北海道、そして釧路は、異国の面があると言えます。また、北海道は、アイヌ文化を通じて、縄文の文化を継承しているという議論もあります。地域がもっている歴史的な豊かさを、再発見することは重要なことです。大学のキャンパスを、地域に拡大して、学ぶ範囲や対象を広げて頂きたいと思います。
 地域との交流では、今年度から、ひがし北海道地域経済金融フォーラムを本学で開催し、地域の経済人、本学を卒業して地域金融機関で活躍されているOB・OGの方々との交流を企画しています。最初は、小さな試みでも、ゆくゆく、大学が地域の知の拠点となることを期待しています。
 
 さて、石川啄木の釧路在住は75日、2ヶ月半に過ぎませんが、26歳という短い人生の中で、最も充実して仕事に励むことができた時代と言われます。その後、東京に出て詠んだ歌に、
 
        こころよく
    我にはたらく仕事あれ
    それを仕遂げて死なむと思ふ
 
というのがあります。これは、別に私の心境というのではありません。人には、生の完成形として死を迎えることができますが、大学という機関には、そうした一生は想定されていません。構成員皆で、大学の使命を、繋いで、繋いで行かなければなりません。皆さん自身のためにも、そして大学のためにも、4年間の釧路在住が、皆さんの人生において、様々な出会いに恵まれた、最も、貴重な時代になることを祈念して、告辞とします。
 
   令和3年4月7日

      釧路公立大学 学長 小路 行彦 

最終更新日:2021年04月07日